劇団GlanzPark×ラポラポラ 演劇「スィ ウヌカラ アン ロ」
いや~いい芝居、いい時間をもらいましたわ。
[24.04.28追記ってか、本格乾燥追加リリース(^^;]
改めて、いや~いい芝居、いい時間をもらいましたわ。
何が「いい時間」にしてくれたのか。
それを探るとこから感想整理。
☆まずね、悪人がいないこと。たぶん。
ゴールデンカムイなんかは、むしろ善意以外で行動してる人のほうが圧倒的に多くて、それはそれで二項対立に終わらない構造を見せてたのだと思うけど、まったく逆のこういう構造でも、問題を二項対立に落としめない視点にいたれると感じさせてくれたのね。
☆しっかりした作りこみ
そういうところ(問題の二項対立に収斂させないための展開)を掘り下げていくには、しっかりした作り込みが必要で、そういう姿勢を例えば丁寧な時間の使い方などで見せてくれていた。
☆具体的な丁寧な時間の使い方。
強く印象に残ったのは2箇所。孫次郎がおばあさんからご飯をもらうシーン。確かここなりの時間サイレントシーンじゃないのにセリフがない時間が続いてた。もうひとつは後半での婚礼祝賀の場の食事に至るまで。ここもセリフけっこうなくて、儀式的側面もあるからというのもあるだろうけど、ひとつひとつの個人相互のやりとりを丁寧に見せてくれてた。
ケとハレ、どちらにも個々の日常の営みがあるということ教えるかのように。
☆「今」と「江戸時代」
二つの時間の折り合い方は、厳密さには欠けるけど、展開において的確な線で出てくるので、違和感は、ないわけではないが気にならなかった。おそらくそれも「日常の営み」のあることを、アイヌの人々の個人性にも照射するのに必要だったのだと感じた。
☆たっぷりドラマを味わった。
けっこう満腹感を覚えたわけだけど、終わって時間を見たら1時間半ちょっと(実は微妙に開演に遅れて、最初の5分間は見られなかったけど)。もっとたくさんの時間を過ごした気持ちになっていた。
☆悪人はいないが軋轢はある。
こっから先はうまくまとめてる時間がないので、だだっとあれこれ羅列的に残しておく。
ドラマの縦線として姉妹の中に、おばあちゃんの形見の扱いについての軋轢が置かれていた。その「軋轢」の原因は実は自分はあんまりちゃんと腑に落ちてない。肉親であるおばあちゃんの願いと、民族の象徴ともなりうる文化財としての価値、その軋轢、とはわかるんだけど、そのどこに対立の根があるのかがいまいち釈然としなかったのだ、自分には。
確かに「残す」「使ってしまう」の二項対立はあるけど、でも妹の望む「おばあちゃんの依頼」であるなんだっけ何かに結ぶこと。それと「残す」ことの双方を満足する方法はないのか。そこらへんは両者とも探そうともしてなかったよな。
なくても探そうとしてみるとこからもドラマは始まると思うのだが、そっちのドラマは選択しなかったってことだろうな。少しは探してほしかったというのが素直な感想。でもそれやったら1時間半ではとても終わらないだろうから、理解。
その上でそういう軋轢を前提としたおかげで、活きているアイヌの人々の思いの揺らぎとかそういうもの、活きたアイヌの人々に観る側も目をしっかり向けることにはなったのはやっぱり素晴らしい選択と言える。
考えてみたらそれってやっぱ、学習体験の延長上に浮上してくる体験かもしれない。
文脈うまくつながらないけど
[江戸時代]
<孫次郎>
一方、明治…じゃなかった江戸時代のほうはというと、孫次郎がよかったね。ああ悪人がいないっていうのも孫次郎の造形がそうだからなんだろうな。たいていこういうふうに出てくるときの「商人」て、どっかずる賢かったりするもんだが、そういうとこがまったくない。それどころかそれを理屈ではなく文字通り体を張って認めてもらっちゃう。
どういう商売やってんのかはわかんないわけだけど、そしてそれをいいねと思いながらも、そこまでお人好しな商人が江戸時代にいたとはとうてい信じられないのだけど、演劇的キャラクターとしてきちんと機能成立してたと思う。
そして蛇足的にいうと、現代軸ではなかった対立模様の解消というのが、こちらにはしっかりあって、ああそうだった。そっちがその役割果たしてたんだと、観てから5日ほど立って感想書き出した時点で、改めてというか、初めて納得というか了解できた。
それでもこっちの中心が主役ではないよな、この構造。と思いつつ。
<おばあちゃん>
おばあちゃんなあ。というかフチね。おばあちゃんとしてのシーンは重なるように展開されたとこはあるけど、単独でおばあちゃんであるとうシーンはなかったからね。
そのフチは、ほぼアイヌ語だけを使っての演技だったのだけど、そうそれを了解する人が舞台上にいるから、こちらもなんだかよく分かった気がしてしまう。それはフチ役の存在感というか説得性のある演技のおかげだろう。
<ミナ>
セリフ回しとか演技力ではなく、その目線を軸とした存在感が染み入ってきた。物静かにおとなしくそんなに対外発散はしないのに、目に力があって何かを見せてくれる感じ。際立つ存在感。
<イニセテッ>
まっすぐな意思を、それはある意味思い込みだけど、浅薄な思い込みであることを超えた信念と感じさせるまっすぐなエネルギー。
<現代>
妹・花と姉・あゆみの軋轢は、そんなに深掘りはされないながら、それぞれが自分の側として表面的にではなく、しっかり掘り下げて考えている背景が見えてきてたので、先にも触れたように、納得。両者がちゃんと相手の人格否定とかではない論点で、対立してたのが潔くて、それも良かった理由のひとつだと思う。
「アイヌ文化振興センター」を場として始まって。なんか情報と理屈だけが届いてくるのかと身構えたのだけど、全くそうではなく、そこからシームレスに江戸時代の営みを想像させる舞台装置として機能していったのがうまいと思った。
センター職員が、二役で江戸時代での狂言回し的役割にいたのも、そんなに目立たない点だけど、しっかりした組み立てだった。
※ここまででまだ触れてない役柄役者さんもいるけれど、書き出すとめちゃ細かい話になって内容がさらに分散していきそうなので、このあたりに留めます。
※まとめるつもりが結局2000字あまりのだらだらかつぶつ切りな駄文になってしまいましたが、最後までお読みくださった方、ありがとうございました。