2019年04月23日
「注文の多い料理店・序」
童話集「注文の多い料理店」の巻頭を飾る賢治の自序。掲載した「おはなし」を発表するにあたって、作者・賢治の姿勢が綴られている。
まっつは、自分が読み語りをするときの姿勢に通じるところを感じてしまっていて、初期の頃、かなり好んで読んできたんだよね。半ば自己紹介代りにさえしていたくらいに。
どう「通じるところ」を感じてるかっていうと、つまりねー「なんのことやらわけのわからない」ところがあっても「ほんとうのたべものに」なるように読みたいってこと。うーん、そのまんまじゃないんだけど、どう説明したらいいだろう。
賢治がこの童話集の後、生前に発表した作品はごくわずか。今日知られる「代表作」のほとんどが死後、半ば発掘されるように刊行されたもの。そして彼は、それらを何度も改稿している。「永久の未完成これ完成である」との言葉が示唆するように。もしかするとそれは、「注文の多い料理店」が意に沿わず売れなかったせいという面もあるかもしれない。
でも、そんなあとの状態があるにしても、この童話集を出したときは、この序にあるように「そのとおり書いたまで」だったはずで、きっと微笑ましく送り出したんじゃないかと思うのさ。後の賢治の姿勢よりも、まっつはこの時の賢治の姿勢に組したい。
「そのとおり書いたまで」と同じように、まっつは「そのとおり読んでいるまで」というつもり。わからなくても、読んでここにある言葉の何かを伝えることはできる、と、まっつは信じていて、それがなんか彼のこの言葉とつながっていると思ってるわけですわ。とりわけ「その場リクエスト」を読むときなんて、ホントにわからないまま読み出して、読み進めながら理解していくことも多いわけだし。
ところで最近は、自己紹介的に使うことは減ってきていて、むしろこれを「読んでもらう」ことのほうが多くなっている。そして、どんな読み方をされても色あせないこの文章、やっぱり大好きなんだなあ。と思ってまっつ。
なお、札幌人図鑑 第586回の動画3 6:32あたりから3分ほどでお聴きいただけます。福津さんに改めて感謝。聴き手が見えない状況のせいだろうな、なんかちょっと必要以上にゆっくりになってる気がするけど(笑)。
[読み語り所要時間]2分-3分 続きを読む
まっつは、自分が読み語りをするときの姿勢に通じるところを感じてしまっていて、初期の頃、かなり好んで読んできたんだよね。半ば自己紹介代りにさえしていたくらいに。
どう「通じるところ」を感じてるかっていうと、つまりねー「なんのことやらわけのわからない」ところがあっても「ほんとうのたべものに」なるように読みたいってこと。うーん、そのまんまじゃないんだけど、どう説明したらいいだろう。
賢治がこの童話集の後、生前に発表した作品はごくわずか。今日知られる「代表作」のほとんどが死後、半ば発掘されるように刊行されたもの。そして彼は、それらを何度も改稿している。「永久の未完成これ完成である」との言葉が示唆するように。もしかするとそれは、「注文の多い料理店」が意に沿わず売れなかったせいという面もあるかもしれない。
でも、そんなあとの状態があるにしても、この童話集を出したときは、この序にあるように「そのとおり書いたまで」だったはずで、きっと微笑ましく送り出したんじゃないかと思うのさ。後の賢治の姿勢よりも、まっつはこの時の賢治の姿勢に組したい。
「そのとおり書いたまで」と同じように、まっつは「そのとおり読んでいるまで」というつもり。わからなくても、読んでここにある言葉の何かを伝えることはできる、と、まっつは信じていて、それがなんか彼のこの言葉とつながっていると思ってるわけですわ。とりわけ「その場リクエスト」を読むときなんて、ホントにわからないまま読み出して、読み進めながら理解していくことも多いわけだし。
ところで最近は、自己紹介的に使うことは減ってきていて、むしろこれを「読んでもらう」ことのほうが多くなっている。そして、どんな読み方をされても色あせないこの文章、やっぱり大好きなんだなあ。と思ってまっつ。
なお、札幌人図鑑 第586回の動画3 6:32あたりから3分ほどでお聴きいただけます。福津さんに改めて感謝。聴き手が見えない状況のせいだろうな、なんかちょっと必要以上にゆっくりになってる気がするけど(笑)。
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2019年04月13日
「どんぐりと山猫」
童話集「注文の多い料理店」の冒頭を飾る作品です。何度かは読み語っているけど、しばらくやってなかったので、改めて工夫どころを検討するような雑感です。
地の文は、終始、主格のこども側に立ってますね、一人称じゃないけど。こどもが見聞きして捉えたことだけを代弁している感じ。しかもそれでほぼ、問題ない。まあ、こどもが意識してなかった事に扱うことができなくもない叙述も少しはある。でもあえてそうする理由は積極的にはないし、そこに挑戦する段階ではないので、そこはあんまり考えない。
楽しいのはやっぱりどんぐりたちの言い分。その繰り返しが文面としてだんだん省略されていくとこあたり。彼らの懸命さと、それに対するやまねこのいらだちや諦観、そして対照的なこどもの冷静さは、一人称で書いてたら示し切れなかったとこかもしれない。なんて思うと、やっぱ王道的にその盛り上がりをどう作るかがポイントなんだよなあ。
そしてもうひとつ、そのメインシーンでは脇役に徹している馬車別当。脇役なのに一番造形されている奴。こいつの印象をどう残すかっていうのも楽しみどころだよね。
[読み語り(ソロ)所要時間]17分-20分 続きを読む
地の文は、終始、主格のこども側に立ってますね、一人称じゃないけど。こどもが見聞きして捉えたことだけを代弁している感じ。しかもそれでほぼ、問題ない。まあ、こどもが意識してなかった事に扱うことができなくもない叙述も少しはある。でもあえてそうする理由は積極的にはないし、そこに挑戦する段階ではないので、そこはあんまり考えない。
楽しいのはやっぱりどんぐりたちの言い分。その繰り返しが文面としてだんだん省略されていくとこあたり。彼らの懸命さと、それに対するやまねこのいらだちや諦観、そして対照的なこどもの冷静さは、一人称で書いてたら示し切れなかったとこかもしれない。なんて思うと、やっぱ王道的にその盛り上がりをどう作るかがポイントなんだよなあ。
そしてもうひとつ、そのメインシーンでは脇役に徹している馬車別当。脇役なのに一番造形されている奴。こいつの印象をどう残すかっていうのも楽しみどころだよね。
[読み語り(ソロ)所要時間]17分-20分 続きを読む
2019年04月08日
「注文の多い料理店」
宮沢賢治が生前に唯一刊行した童話集であり、かつそこに収録された表題作ですね。作品の解釈とかテーマとか、そういう点はあまりふれず、基本的に読み語りをする上で感じていることなどを書こうと思います。
まっつの20年近い読み語り歴の中、この童話はもっとも回数多く取り組んできた小説系作品のひとつです。これに匹敵する小説系は、芥川の「蜘蛛の糸」くらいかなあ。あ、楠山「ねずみのよめいり」もかなりか。
まあその羅列はどうでもいいんですが、そのように回を重ねているので、当然、読み方も多少変遷してきてます。年を経て確認しようと思ったら、わ、初期というか2011年まであたり音声データは…いまはもう聞けないじゃないかっ。ああー、MD…。
そんなわけで、きっちり振り返るのは難しいので、今、この作品についてどう感じ、どう意識しながら読むかということを披露しつつ、多少その中でかつての読みのことが思い浮かんだら示していくにとどめます。
まずは主要登場人物である「二人の紳士」。ともに「肥って若い」ってことなので、差異を出すのに最近はだいたい、ひとりはおおざっぱ。もうひとりは少し下手に出て優位に立ちたがる。そんなイメージにしていますね。ステイタス的には前者のほうがちょっとだけ上の感じ。
これがはまるのは、戸に書かれた指示に少しは疑念を持ちながらも、後者が思いつきでもっともらしいことを言って問題ないことにしてしまう、という流れがおおむねあるから。たぶん初期のころは、そこまで明確に意識してなかったと思うけど、だんだん、そうやって二人が追い詰められていく中に、両者の必ずしも健全ではない関係性があるのがおもしろいと思い始めたんだよね。これ、最近はけっこう鉄板な感じで採用してる。
まあそれでほぼ進行して、もうひとつ大きなポイントは終盤の戸の中から聞こえる声ですね。これ初期は体ごと切り替えて戸の向こうの存在(明示されてないけど山猫の子分たち)になってやってたと思うんだけど、いつのころからか、体は紳士たちのままで、声だけそいつらにする、というやり方にしてるんですね。
どういうことやらわかりませんね。そこはライヴでお楽しみくださいませ。(19.04.08)
[読み語り(ソロ)所要時間]15分-17分半(19.04.13追記) 続きを読む
まっつの20年近い読み語り歴の中、この童話はもっとも回数多く取り組んできた小説系作品のひとつです。これに匹敵する小説系は、芥川の「蜘蛛の糸」くらいかなあ。あ、楠山「ねずみのよめいり」もかなりか。
まあその羅列はどうでもいいんですが、そのように回を重ねているので、当然、読み方も多少変遷してきてます。年を経て確認しようと思ったら、わ、初期というか2011年まであたり音声データは…いまはもう聞けないじゃないかっ。ああー、MD…。
そんなわけで、きっちり振り返るのは難しいので、今、この作品についてどう感じ、どう意識しながら読むかということを披露しつつ、多少その中でかつての読みのことが思い浮かんだら示していくにとどめます。
まずは主要登場人物である「二人の紳士」。ともに「肥って若い」ってことなので、差異を出すのに最近はだいたい、ひとりはおおざっぱ。もうひとりは少し下手に出て優位に立ちたがる。そんなイメージにしていますね。ステイタス的には前者のほうがちょっとだけ上の感じ。
これがはまるのは、戸に書かれた指示に少しは疑念を持ちながらも、後者が思いつきでもっともらしいことを言って問題ないことにしてしまう、という流れがおおむねあるから。たぶん初期のころは、そこまで明確に意識してなかったと思うけど、だんだん、そうやって二人が追い詰められていく中に、両者の必ずしも健全ではない関係性があるのがおもしろいと思い始めたんだよね。これ、最近はけっこう鉄板な感じで採用してる。
まあそれでほぼ進行して、もうひとつ大きなポイントは終盤の戸の中から聞こえる声ですね。これ初期は体ごと切り替えて戸の向こうの存在(明示されてないけど山猫の子分たち)になってやってたと思うんだけど、いつのころからか、体は紳士たちのままで、声だけそいつらにする、というやり方にしてるんですね。
どういうことやらわかりませんね。そこはライヴでお楽しみくださいませ。(19.04.08)
[読み語り(ソロ)所要時間]15分-17分半(19.04.13追記) 続きを読む
2014年11月23日
「夢十夜」について
「夢十夜」
1908年(明治41年)の夏に新聞連載。漱石には珍しい短編連作。その幽玄多彩な作品世界は、映画などにもなっている。
「夏目漱石」
「坊ちゃん」「吾輩は猫である」等の長編小説で著名な小説家。1867年2月9日(慶応3年1月5日)生誕、1916年(大正5年)12月9日没。2004年発行分まで千円札に肖像が使われたことで覚えている人も多いかもしれない。
[まっつ的「夢十夜」紹介]
ご存知、夏目漱石の手による短編連作。いや、漱石作品を読んだことのある人でも、この短編群は知らないって人も多いっすね。
ざっと見渡してみても、漱石の作品は読み語りには向かないものが多いんです。・・長いから。いや、一部抜粋という形であればいいんだろうけど、なかなかそれってむずかしいですよ。
「小品」とされる作品はそこそこある。ただそれって小説なんだかエッセイなんだか、しっかり研究してない自分には区別が付かないんですよね。
そんな中でこの「夢十夜」は、さすが「夢」と題しているだけあって、幻想小説って言っちゃっていいだろうと思える次第。
作者の時代を舞台とする篇が多いものの、江戸時代を思わせる篇や、はるか古えを舞台にしたものもある。とはいえ夢にありがちな妖怪変化の類いは、明確な形では登場しない。「どっちなの」というやや曖昧な登場が、むしろ夢らしいといえば夢らしい。
地の文の筆致も、明らかに登場主体人物として語られている篇から、夢にいて観察している側のものであったり、登場人物筆致でありつつはるか彼方を描写する篇もある。さらに最後に伝聞と分かる展開や、伝聞を観ていたような語り口で続けていく篇もある。
そのあたりの多様性も、何度読んでも飽きない要因じゃないかな。
そんな風に、このところはすごく親しげにこの十篇と付き合っているまっつですが、ちゃんと読んだのは、まあなんと、読み語りを初めてから、なのです。読み語りにふさわしい作品を探してのことだったんですね(確か)。
高校時代、漱石長編は読破してやろうと思って、とにかくも読み切ったんですけど、短いものは「倫敦等」の???な感じに入っていけず、以後挫折したって記憶があるくらい。だから読んでなかったはず。ま、長編についても「読んだ記憶」があるだけで、中身はもうほとんど思い出せないくらいだから、どうってことないことですけどね(笑)。
ざくっと内容を知りたいなら、Wikiに各篇紹介が載ってます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/夢十夜
そして全篇とも「青空文庫」で読めます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/799_14972.html
→「夢十夜」について2-各夜 続きを読む
1908年(明治41年)の夏に新聞連載。漱石には珍しい短編連作。その幽玄多彩な作品世界は、映画などにもなっている。
「夏目漱石」
「坊ちゃん」「吾輩は猫である」等の長編小説で著名な小説家。1867年2月9日(慶応3年1月5日)生誕、1916年(大正5年)12月9日没。2004年発行分まで千円札に肖像が使われたことで覚えている人も多いかもしれない。
[まっつ的「夢十夜」紹介]
ご存知、夏目漱石の手による短編連作。いや、漱石作品を読んだことのある人でも、この短編群は知らないって人も多いっすね。
ざっと見渡してみても、漱石の作品は読み語りには向かないものが多いんです。・・長いから。いや、一部抜粋という形であればいいんだろうけど、なかなかそれってむずかしいですよ。
「小品」とされる作品はそこそこある。ただそれって小説なんだかエッセイなんだか、しっかり研究してない自分には区別が付かないんですよね。
そんな中でこの「夢十夜」は、さすが「夢」と題しているだけあって、幻想小説って言っちゃっていいだろうと思える次第。
作者の時代を舞台とする篇が多いものの、江戸時代を思わせる篇や、はるか古えを舞台にしたものもある。とはいえ夢にありがちな妖怪変化の類いは、明確な形では登場しない。「どっちなの」というやや曖昧な登場が、むしろ夢らしいといえば夢らしい。
地の文の筆致も、明らかに登場主体人物として語られている篇から、夢にいて観察している側のものであったり、登場人物筆致でありつつはるか彼方を描写する篇もある。さらに最後に伝聞と分かる展開や、伝聞を観ていたような語り口で続けていく篇もある。
そのあたりの多様性も、何度読んでも飽きない要因じゃないかな。
そんな風に、このところはすごく親しげにこの十篇と付き合っているまっつですが、ちゃんと読んだのは、まあなんと、読み語りを初めてから、なのです。読み語りにふさわしい作品を探してのことだったんですね(確か)。
高校時代、漱石長編は読破してやろうと思って、とにかくも読み切ったんですけど、短いものは「倫敦等」の???な感じに入っていけず、以後挫折したって記憶があるくらい。だから読んでなかったはず。ま、長編についても「読んだ記憶」があるだけで、中身はもうほとんど思い出せないくらいだから、どうってことないことですけどね(笑)。
ざくっと内容を知りたいなら、Wikiに各篇紹介が載ってます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/夢十夜
そして全篇とも「青空文庫」で読めます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/799_14972.html
→「夢十夜」について2-各夜 続きを読む
2014年11月23日
「夢十夜」について2-各夜
読み語り的「夢十夜」各夜解説(爆)
「夢十夜」作品全体については
→「夢十夜」について1
・全十篇のうち「こんな夢を見た」で始まるのが「第一夜」「第二夜」「第三夜」「第五夜」。後は「第九夜」が「夢の中で母から聞いた」で終わります。が、残り半分の5篇には「夢」なんて一言も書いてない。でもまあほとんどが明らかに「夢」として描かれていると読むしかないんじゃないかな。
[第一夜]
・最も有名だろうと思われる篇。「こんな夢を見た」に続いて「女がもう死にますと云う」てな文が来ます。
・終始、地の文は男性視点。でも女セリフが十篇中で最も多い。それも今にも死にそうなはかなげなコトバだからか、女性の選択が第一期では多めでした。
・文字数も十篇中最大。それに加えて時間経過の大きい内容のためか、たいてい全篇で一番時間がかかります。
・舞台は終始、男の(と思われる)家の居室と庭。そこで「百年」。
・最後の一文に、どんな想いを乗せるかで、きっと印象は大きく変わるだろうなあ。
☆読み語り初期の頃は、女セリフは女視線でやってたんだけど、最近はなんか男視線のままで女セリフを言うようになってる。
[第二夜]
・全篇中、おそらく最も緊迫感の高い篇。声を荒げるというより静かに殺気がみなぎっていく感じだけど、それでも一番、汗をかく(笑)。
・「」で括られていない和尚のコトバをどう読むか。そこらには選択の余地がありますね。
・読み語り的には、小道具である「短刀」とか、「行灯」を始めとする部屋のしつらえをどこまで具現化するかが工夫のしどころ。
・最後の一文の後に、どんなイメージを残すかってとこには、まだまだいろんな可能性がありそう。
☆これも初期には実際に座ってやったりもしてたけど、最近そのスタイルはやってないなあ。今期「夢十夜Nights」では、当たったらそのスタイルも久々にやってみようかな。
[第三夜]
・「夢十夜」が「怪談」と紹介されることもそちこちであるようですが、最も怪談らしいのがこの篇。そっち方面(どこ?)では一番有名かも。
・第二夜のような殺気みなぎる緊迫感ではなく、怪しさに浸食されて次第に切迫していく感じ。
・「背負った子供(小僧)と会話する」という状況設定が、とにかく怪談めく効果を与えているよねぇ。
・最後に百年前のことを想い出すと…、という展開は、なんで怖いのか論理的にはうまく説明できないけど、確かに怖い。
・全篇中、最も会話文が多い。
☆これは初期のころと今とで、そんなに読み方は変わってないな。身体の使い方はだいぶ少なくなってきたけど。小僧の声はちょっと安定しすぎか、たまに違う声にしてもみてもいいかなあ。
[第四夜]
・一転して子ども目線で描かれた篇。これも怪談というなら怪談だけど、怖いというよりただただ「不思議」に満たされた感じ。
・妙なじいさんに心惹かれてこっそりついていく子ども。どことなく「ハーメルンの笛吹き男」を思わせるのだが、そして確かに笛を吹くのだが、子どもは最後、じいさんと関わることもなく置いてかれる。
・その最終景をどんな風に印象づけるか、は、いろんなやり方があると思ってる。
☆「じいさん」の造型で、おそらくずいぶん印象が変わるんだろうと思うのだが、まっつはけっこう同じにやってるなあ。でもこれはけっこう鉄板な感覚。
※「神さん」は、当時の表記のあり方からすると「おかみさん」の意で間違いないと思われるのだが、ときどき「神様」の意で読むこともある。
●ちなみに、谷川俊太郎さんの「じゅうにつき」の「くがつ」に出てくる「おじいさん」のモデルはこの「じいさん」じゃないかと勝手に思ってる(笑)。
[第五夜]
・全篇中、もっとも古い時代を舞台にした篇。「神代に近い昔と思われる」とあるんだからそうでしょ。夢の話だからまあ、正確かどうかは問題ではないけど、そんなもんかなと思わせるのはさすが。
・語り手である男と、彼を捕えた大将との対峙シーンから、一転してそのままの語り口で遠くの女を描く。
・その視点の移動も大きいけど、よく読むとそこまでにも当事者としての語りというより解説挿入的な部分がけっこう入っている。
☆そんなわけで当事者目線で読むときも多いけど、ときどき第三者目線でやってみたりする。
[第六夜]
・「鎌倉時代とも思われる」ような場所に運慶がいる。木の高いところにいて「仁王を刻んでいる」らしい。「ところが見ているものは」「明治の人間」。
・そうしてもっぱら見物視線から運慶の様子を描ききるのかと思わせつつ、意外にも途中でその場とはお別れ。「急に自分も仁王が彫ってみたくなった」のだ。
・そんなわけで最後の場面では、「明治の木にはとうてい仁王は埋っていない」と悟る。悟るのは悟るでそれでいいのだが、その締めが「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った」。読者としても一瞬「解った」気になるのだが、よくよく考えると理屈は通ってない。
☆読み手としてはしかしだからこそ、どれだけ「解った」気にさせるかだよなと思ったりする。
[第七夜]
・舞台はさらにここまでの作品と毛色の違う場が舞台。船である。「けれどもどこへ行くんだか分らない」。
・終始、地の文は当事者スタンスで展開。そして「つまらないから死のうとさえ思って」いく。
・登場して何かを言う人の数は、全篇で一番多い。
・ただねー「」で括ってるセリフと、そうじゃないセリフとが混在しているのがちょっとひっかかるんだよねえ。
☆ひっかかるけど、まあセリフだろうと言うのは通常セリフ的に読んでいることが多いなあ。
☆これも最後の一文をどう聴かせるか。そこに至るまでに何を積み重ねるかが大きい篇だと思う。「どこへ行くんだか分らない」船に、それまでにどれだけリアリティを積み重ねるか。
[第八夜]
・一転、日常的な場(であったろう)、床屋が舞台。
・全体を通じて「鏡」に映る「窓の外を通る往来」を気にする当事者視線で描かれている。
・最後に「帳場格子」の「女」が見えるのだが、そこから急に「不思議」が立ち上がる。
・そして「金魚売」。
☆最後の一文で、この金魚売をどんな風情で「眺めている」ようにするか。その振り幅は多分、全篇中一番大きい。つまり一番捉えどころがない篇(笑)。
[第九夜]
・これまた一転して、今度は終始、第三者視線で描かれた篇。唯一、女性が主役のお話と言ってもいいだろう。
・ときどき地の文は主役から目を離し、あたりにある物を「面白い」などとも語ってしまう。
・そのくせそれは「夢の中で母から聞いた」話だって最後に締めるんだよね。この最終文とその前の文で二段落ちだよね。
☆クライマックスの「お百度参り」シーンには、主役のセリフは出てこない。まあだから第三者視線の地の文ながら、主役の心境をつい忍ばせたくなる。そうやってることが多いのだけど、もっと見守る側でいてもいいんだろうなあ。
[第十夜]
・全十篇中、唯一、笑いが出ることのある篇。まあ「くすっ」程度だけど。
・そして「第八夜」に登場した固有名詞の人物「庄太郎」が主役という、他の篇にはない特徴がある。
・とはいえ筆致は第三者視点。第三者だけど知り合いスタンスなのも特徴的か。
・ここに出てくる「女」は、しかしかなり怪しい。そしてこの篇ではセリフ的表現にまったく「」がない。
☆この「女」をどう造型するかってのが、読み語り的には一番の工夫どころかも。
●読者としては、第八夜に出てくる庄太郎の「連れ」の「女」と、この篇の「女」を同じと読むのも許されるだろう。しかしまあ、一貫して一人で読み語っても、そこを表現するってのはムリ。
と、こんなふうに全十篇を改めて解説風スタンスで見てきたら、あらあら、第一夜と第十夜、最初と最後の篇が共に、「女に何か要求されるお話」だったんですねえ。 続きを読む
「夢十夜」作品全体については
→「夢十夜」について1
・全十篇のうち「こんな夢を見た」で始まるのが「第一夜」「第二夜」「第三夜」「第五夜」。後は「第九夜」が「夢の中で母から聞いた」で終わります。が、残り半分の5篇には「夢」なんて一言も書いてない。でもまあほとんどが明らかに「夢」として描かれていると読むしかないんじゃないかな。
[第一夜]
・最も有名だろうと思われる篇。「こんな夢を見た」に続いて「女がもう死にますと云う」てな文が来ます。
・終始、地の文は男性視点。でも女セリフが十篇中で最も多い。それも今にも死にそうなはかなげなコトバだからか、女性の選択が第一期では多めでした。
・文字数も十篇中最大。それに加えて時間経過の大きい内容のためか、たいてい全篇で一番時間がかかります。
・舞台は終始、男の(と思われる)家の居室と庭。そこで「百年」。
・最後の一文に、どんな想いを乗せるかで、きっと印象は大きく変わるだろうなあ。
☆読み語り初期の頃は、女セリフは女視線でやってたんだけど、最近はなんか男視線のままで女セリフを言うようになってる。
[第二夜]
・全篇中、おそらく最も緊迫感の高い篇。声を荒げるというより静かに殺気がみなぎっていく感じだけど、それでも一番、汗をかく(笑)。
・「」で括られていない和尚のコトバをどう読むか。そこらには選択の余地がありますね。
・読み語り的には、小道具である「短刀」とか、「行灯」を始めとする部屋のしつらえをどこまで具現化するかが工夫のしどころ。
・最後の一文の後に、どんなイメージを残すかってとこには、まだまだいろんな可能性がありそう。
☆これも初期には実際に座ってやったりもしてたけど、最近そのスタイルはやってないなあ。今期「夢十夜Nights」では、当たったらそのスタイルも久々にやってみようかな。
[第三夜]
・「夢十夜」が「怪談」と紹介されることもそちこちであるようですが、最も怪談らしいのがこの篇。そっち方面(どこ?)では一番有名かも。
・第二夜のような殺気みなぎる緊迫感ではなく、怪しさに浸食されて次第に切迫していく感じ。
・「背負った子供(小僧)と会話する」という状況設定が、とにかく怪談めく効果を与えているよねぇ。
・最後に百年前のことを想い出すと…、という展開は、なんで怖いのか論理的にはうまく説明できないけど、確かに怖い。
・全篇中、最も会話文が多い。
☆これは初期のころと今とで、そんなに読み方は変わってないな。身体の使い方はだいぶ少なくなってきたけど。小僧の声はちょっと安定しすぎか、たまに違う声にしてもみてもいいかなあ。
[第四夜]
・一転して子ども目線で描かれた篇。これも怪談というなら怪談だけど、怖いというよりただただ「不思議」に満たされた感じ。
・妙なじいさんに心惹かれてこっそりついていく子ども。どことなく「ハーメルンの笛吹き男」を思わせるのだが、そして確かに笛を吹くのだが、子どもは最後、じいさんと関わることもなく置いてかれる。
・その最終景をどんな風に印象づけるか、は、いろんなやり方があると思ってる。
☆「じいさん」の造型で、おそらくずいぶん印象が変わるんだろうと思うのだが、まっつはけっこう同じにやってるなあ。でもこれはけっこう鉄板な感覚。
※「神さん」は、当時の表記のあり方からすると「おかみさん」の意で間違いないと思われるのだが、ときどき「神様」の意で読むこともある。
●ちなみに、谷川俊太郎さんの「じゅうにつき」の「くがつ」に出てくる「おじいさん」のモデルはこの「じいさん」じゃないかと勝手に思ってる(笑)。
[第五夜]
・全篇中、もっとも古い時代を舞台にした篇。「神代に近い昔と思われる」とあるんだからそうでしょ。夢の話だからまあ、正確かどうかは問題ではないけど、そんなもんかなと思わせるのはさすが。
・語り手である男と、彼を捕えた大将との対峙シーンから、一転してそのままの語り口で遠くの女を描く。
・その視点の移動も大きいけど、よく読むとそこまでにも当事者としての語りというより解説挿入的な部分がけっこう入っている。
☆そんなわけで当事者目線で読むときも多いけど、ときどき第三者目線でやってみたりする。
[第六夜]
・「鎌倉時代とも思われる」ような場所に運慶がいる。木の高いところにいて「仁王を刻んでいる」らしい。「ところが見ているものは」「明治の人間」。
・そうしてもっぱら見物視線から運慶の様子を描ききるのかと思わせつつ、意外にも途中でその場とはお別れ。「急に自分も仁王が彫ってみたくなった」のだ。
・そんなわけで最後の場面では、「明治の木にはとうてい仁王は埋っていない」と悟る。悟るのは悟るでそれでいいのだが、その締めが「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った」。読者としても一瞬「解った」気になるのだが、よくよく考えると理屈は通ってない。
☆読み手としてはしかしだからこそ、どれだけ「解った」気にさせるかだよなと思ったりする。
[第七夜]
・舞台はさらにここまでの作品と毛色の違う場が舞台。船である。「けれどもどこへ行くんだか分らない」。
・終始、地の文は当事者スタンスで展開。そして「つまらないから死のうとさえ思って」いく。
・登場して何かを言う人の数は、全篇で一番多い。
・ただねー「」で括ってるセリフと、そうじゃないセリフとが混在しているのがちょっとひっかかるんだよねえ。
☆ひっかかるけど、まあセリフだろうと言うのは通常セリフ的に読んでいることが多いなあ。
☆これも最後の一文をどう聴かせるか。そこに至るまでに何を積み重ねるかが大きい篇だと思う。「どこへ行くんだか分らない」船に、それまでにどれだけリアリティを積み重ねるか。
[第八夜]
・一転、日常的な場(であったろう)、床屋が舞台。
・全体を通じて「鏡」に映る「窓の外を通る往来」を気にする当事者視線で描かれている。
・最後に「帳場格子」の「女」が見えるのだが、そこから急に「不思議」が立ち上がる。
・そして「金魚売」。
☆最後の一文で、この金魚売をどんな風情で「眺めている」ようにするか。その振り幅は多分、全篇中一番大きい。つまり一番捉えどころがない篇(笑)。
[第九夜]
・これまた一転して、今度は終始、第三者視線で描かれた篇。唯一、女性が主役のお話と言ってもいいだろう。
・ときどき地の文は主役から目を離し、あたりにある物を「面白い」などとも語ってしまう。
・そのくせそれは「夢の中で母から聞いた」話だって最後に締めるんだよね。この最終文とその前の文で二段落ちだよね。
☆クライマックスの「お百度参り」シーンには、主役のセリフは出てこない。まあだから第三者視線の地の文ながら、主役の心境をつい忍ばせたくなる。そうやってることが多いのだけど、もっと見守る側でいてもいいんだろうなあ。
[第十夜]
・全十篇中、唯一、笑いが出ることのある篇。まあ「くすっ」程度だけど。
・そして「第八夜」に登場した固有名詞の人物「庄太郎」が主役という、他の篇にはない特徴がある。
・とはいえ筆致は第三者視点。第三者だけど知り合いスタンスなのも特徴的か。
・ここに出てくる「女」は、しかしかなり怪しい。そしてこの篇ではセリフ的表現にまったく「」がない。
☆この「女」をどう造型するかってのが、読み語り的には一番の工夫どころかも。
●読者としては、第八夜に出てくる庄太郎の「連れ」の「女」と、この篇の「女」を同じと読むのも許されるだろう。しかしまあ、一貫して一人で読み語っても、そこを表現するってのはムリ。
と、こんなふうに全十篇を改めて解説風スタンスで見てきたら、あらあら、第一夜と第十夜、最初と最後の篇が共に、「女に何か要求されるお話」だったんですねえ。 続きを読む
2013年09月07日
「宮沢賢治*銀河鉄道を巡る冒険」を巡って2
音楽を楽譜だけで楽しめる人なんてレアでしょ。
聴くことや、自分で歌うことが楽しみ方でしょ。
けど、
小説なんかは
たいていは、文字を読んで楽しむことの方が主流で
自分で声に出して読むことはもちろん
人の声で読まれるのを聴くことすら
なかなか楽しみとして認識されてないのが現状じゃん。
まあ、詩や童話とか絵本あたりで
少しは読み聴きする楽しみ方が
あるように思えるくらいで。
その差を埋めていくには
何をどうしたら
いいのかなあ。
いやいや、ひとりじゃどうしようもないことだけど
音楽系の方々とコラボするときって
すごい親近感を覚えると同時に
日常活動の相違に目がくらむ。
その一方で
そんなハンパな場所にいる自分を
分け隔てなく受け入れてくれる
音楽家たちには
頭が下がる。えっと抽象的な意でなく
ほんとになんか、ありがとうという下がりかた。
ジャパニーズ・レベランス(爆)?
小松崎健さんは
まっつにとって
そんな方の代表格のひとり。
なんて言うのも畏れ多いくらい
もっとビッグな方ですけど。
で、話を戻すと
「宮沢賢治*銀河鉄道を巡る冒険」
この構成作品は
テキストを読むだけじゃ見えないことが
確かに声に載せると見えてくる。
健さんの音に支えられると聴こえてくる。
あ、普通の小説よりはるかに
音楽に近い
健さんとの合わせ方も
なんとなく、よりそれっぽい気がするのだ。
13.09.07
聴くことや、自分で歌うことが楽しみ方でしょ。
けど、
小説なんかは
たいていは、文字を読んで楽しむことの方が主流で
自分で声に出して読むことはもちろん
人の声で読まれるのを聴くことすら
なかなか楽しみとして認識されてないのが現状じゃん。
まあ、詩や童話とか絵本あたりで
少しは読み聴きする楽しみ方が
あるように思えるくらいで。
その差を埋めていくには
何をどうしたら
いいのかなあ。
いやいや、ひとりじゃどうしようもないことだけど
音楽系の方々とコラボするときって
すごい親近感を覚えると同時に
日常活動の相違に目がくらむ。
その一方で
そんなハンパな場所にいる自分を
分け隔てなく受け入れてくれる
音楽家たちには
頭が下がる。えっと抽象的な意でなく
ほんとになんか、ありがとうという下がりかた。
ジャパニーズ・レベランス(爆)?
小松崎健さんは
まっつにとって
そんな方の代表格のひとり。
なんて言うのも畏れ多いくらい
もっとビッグな方ですけど。
で、話を戻すと
「宮沢賢治*銀河鉄道を巡る冒険」
この構成作品は
テキストを読むだけじゃ見えないことが
確かに声に載せると見えてくる。
健さんの音に支えられると聴こえてくる。
あ、普通の小説よりはるかに
音楽に近い
健さんとの合わせ方も
なんとなく、よりそれっぽい気がするのだ。
13.09.07
2013年09月05日
「宮沢賢治*銀河鉄道を巡る冒険」を巡って1
言葉は、
特に作品として上梓された言葉は
完成された後、
変貌することは珍しい。
けれど誰しも経験しているだろう。
子どもの頃に読んだ童話を
大人になって読むと
ずいぶん違う印象を受けるものと。
読み手の変化が
変わらない言葉の印象を変える。
言葉にはそういう面もある。
読み語りという
文字表現をライブなものに変換する行為も
いわば、そういう言葉の可能性を
信じてのことだ。
今、読み聴く、それぞれの我々に
常に言葉は新しく異なる蓄積を携えて響いてくる。
3年前までの「福島」と
今の「福島」が
善し悪しにかかわらず、
異なって意識されるように。
同じようにそれはまた
作者自身の言葉への想いを知ることによっても
変化するだろう。
それもまたまた
読み手や聴き手のイメージ変化のひとつでもある。
この「宮沢賢治*銀河鉄道を巡る冒険」では
たくさんのイメージが交錯する
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を主軸にしつつ
そこに登場する
「月」や「鳥」「リンゴ」
あるいは「別れ」や「幸い」「祈り」を
語る賢治自身の言葉が
挿入された構成だ。
それは原構成者・長岡登美子氏の
いわば賢治解析の一端と
自分には今は思えるものである。
実は、初演前、初めて
具体的な指示などなく
テキストとして
これを受け取ったとき
我々は途方にくれたのだった。
にもかかわらず、
声にしたとき、
そして健さんのハンマーダルシマーの音色にのせたとき、
そのことは、
いきなりしっかり響いてきたのだった。
「読み語り」への理解もある長岡氏の意思に
そうしてのっかって、
まっつは踊るのである。
いや、踊らないけど。読むのだけれど。
いやいや、実ははっきり
健さんの音と長岡氏の意思に
やっぱり踊らされるのだけれど(笑)。
そして、その響く先にいる皆さんこそが
この長岡氏による賢治のコトバ群の案内によって
それぞれの賢治像(ほとんど像を持たない人も含め)を
出発点に、「賢治銀河への冒険」に
誘われることになる。
時間的都合で、元の長岡氏構成テキストの
一部を割愛しているが、
その可能性は、いささかも減じないはずだ。
13.09.05 続きを読む
特に作品として上梓された言葉は
完成された後、
変貌することは珍しい。
けれど誰しも経験しているだろう。
子どもの頃に読んだ童話を
大人になって読むと
ずいぶん違う印象を受けるものと。
読み手の変化が
変わらない言葉の印象を変える。
言葉にはそういう面もある。
読み語りという
文字表現をライブなものに変換する行為も
いわば、そういう言葉の可能性を
信じてのことだ。
今、読み聴く、それぞれの我々に
常に言葉は新しく異なる蓄積を携えて響いてくる。
3年前までの「福島」と
今の「福島」が
善し悪しにかかわらず、
異なって意識されるように。
同じようにそれはまた
作者自身の言葉への想いを知ることによっても
変化するだろう。
それもまたまた
読み手や聴き手のイメージ変化のひとつでもある。
この「宮沢賢治*銀河鉄道を巡る冒険」では
たくさんのイメージが交錯する
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を主軸にしつつ
そこに登場する
「月」や「鳥」「リンゴ」
あるいは「別れ」や「幸い」「祈り」を
語る賢治自身の言葉が
挿入された構成だ。
それは原構成者・長岡登美子氏の
いわば賢治解析の一端と
自分には今は思えるものである。
実は、初演前、初めて
具体的な指示などなく
テキストとして
これを受け取ったとき
我々は途方にくれたのだった。
にもかかわらず、
声にしたとき、
そして健さんのハンマーダルシマーの音色にのせたとき、
そのことは、
いきなりしっかり響いてきたのだった。
「読み語り」への理解もある長岡氏の意思に
そうしてのっかって、
まっつは踊るのである。
いや、踊らないけど。読むのだけれど。
いやいや、実ははっきり
健さんの音と長岡氏の意思に
やっぱり踊らされるのだけれど(笑)。
そして、その響く先にいる皆さんこそが
この長岡氏による賢治のコトバ群の案内によって
それぞれの賢治像(ほとんど像を持たない人も含め)を
出発点に、「賢治銀河への冒険」に
誘われることになる。
時間的都合で、元の長岡氏構成テキストの
一部を割愛しているが、
その可能性は、いささかも減じないはずだ。
13.09.05 続きを読む